昭和54年05月10日 朝の御理解



 御理解 第49節
 「信心は相縁機縁。」

 先日から京都の、或教会で御信心をしておられる方が、合楽の事を聞いて一晩泊まりでお参りになった。帰りには一日ここに居って研修を頂いて帰られました。そこでここの出版物を買っていかれて、「おかげの泉」をもう百二十冊位ありますか、それを間にはもう売り切れておるのがありましたそうですが、全部買うてかえられる。でそれを一冊一冊これからゆっくり楽しませて頂きながら研修していきたい、と言う手紙が昨日参りました。自分の信心の関係の方達に全部それを貸してあげられた。
 皆にも喜ばれ、私の信心の一大転機を、今度の合楽に参りましたことから、言わば合楽理念による信心が出来ることだろうと思います。そのことを親先生にも、自分の教会の親先生にもいろんな書物も見てもらい、お話しさせて頂いたら大変に喜ばれた、という手紙が昨日参っております。本当に例えば全然縁もゆかりもない方が、何かの拍子にそうした合楽に縁を結ばれて、そこに信心の一大転機をもたらす、と言う事はその人の人生の言うなら、幸不幸をもかかわってくる事だと、私は思うのです。
 お互い折角金光教の信心を頂かれることになり、然も合楽に御神縁を頂かれたのですから、その御神縁が本当に有り難い御神縁に、繋がっていかなければいけない。いわゆる相縁になっていかなきゃ、只機縁に終わったんではつまらん。只縁を頂いておる。ほんに合楽にあんなしてお参りをしたことがあった、と言うだけで終ったんでは、縁は異なもの味なものとこう申しますから、異なものに終わらずに、味なものに段々進展して行かなきゃならんのです。
 そこからですそれこそ、私共の運命の上にも、天と地ほどの差が出来てくる。昨日泉尾の月刊紙であります「いずみ」を送って頂いて読ませて頂いとりましたら、泉尾の先生のお言葉が、ま私の心をとらえた。それを昨日研修時にも、繰り返し聞いて頂いておかげを頂いたことでしたけれども。こう言う事を言っておられます。『苦(苦労の苦ですね)苦の先取りをする人は少ない。追いつめられての信心は本物ではない』『常平生の信心をせよ』とは苦の先取りである。
 『死さえも先取りする事が出来る。楽しみの先取りをする人は多いが、楽しみをお預けして末々の安心の歩みをしてほしい』とあります。それこそ尻に火が付いた様に難儀が出来たからお参りをする。成程おかげ頂くかもしれんけども、先々の安心のおかげと言ったようなものには成らない。言うならば苦の先取りをする。昨日私も修行生の先生達にそのことを話すんですけれど。今は言うならばもう修行中なんだ。一生懸命に只もう修行だけに専念しておると言う事は、それは修行の先取りをして居る様なもの。
 困ったから修行すると言うのじゃないね。そこからね言うならばここの修行生の方達が、まいろいろ神様にお誓いをしておる事の中に、門外不出と言った様なのがあります。独断で外へ出る様な事は致しません。又それが一番楽しいんですけどね。けどそれが楽しいと言う所まで行かん。やっぱり苦しいだからもうそれを破って平気で出て歩く、という人達も中にはやっぱりある訳です。これなんかは言うならば楽しみを、言わばお預けしてと言う事じゃなくて、もうかつがつ楽しんで行こうとしておる。
 これではもう徹底した修行は出来ません。ですから本当に言うならば修行の先取りをさせて頂いて、先ずは自分自身が助かる手立てを、本気で頂かなければならない。次にはこう言う様な事も言っておられます。一つの事に出会ってもそれを喜びで受ける人、不足で受ける人、僅かの様でもその差は大きい。働く人遊ぶ人喜ぶ人怒る人、真剣な人良いかげんな人、始末をする人無駄使いをする人、これが五年十年とたつうちには天地ほどの差ができるとありますね。
 例えば真面目とか真面目である人、もうこれ位のことはよかよかで、例えば不真面目な生き方をして、何でもないごたるけども、それが五年十年して行くうちに天地程の開きになってくる。几帳面にやる人しだごだにやる人、大したことないごとあるけれども、その差と言うものは、五年十年たつうちに、天地程の開きが出来てくる。本当に神様の御物として、物でも金でもおし頂く様な頂き方をする人、それを平気で無駄使いをする人、確かに天地程の開きが出来てくるですよね。
 一生懸命に修行する人、修行をいいかげんにする人、も修行に徳は付き物と仰るのですから、もそれこそ徳を受ける受けないと言う事は、そのまま天地ほどの開きになってくるのです。天地ほどの差ができると言ってあります。これはもう先生御自身が自分で通ってこられた体験だとこう思うです。人がにんべんなら私は行にんべん、人が一つする時には二つ信心をさして貰うと言った様な私はここのところを読ませて頂いて、ま自分の信心を思うてみてですね。
 もうほんなちょっとした事ですけれども人とは少しは違った信心、良い信心を心かけると言う事でです、それが五年十年経つ内に、天地ほどの開きになって来るんです。確かに信心は心掛けでするものだと言う事が分かります。そこで例えば始末するとか真面目にやるとかと言う様な事がね、もう本当に有り難いものになって来なきゃならん。様々な問題との出会い、それを有り難く受ける人、不平不足でうける人、言うならば難儀なら難儀の問題ですけれども、それを受ける心掛け一つでです。
 それを有り難くも受けられれば不平不足にも成ってくる。そこにです天地ほどの開きに成って来るわけ。有り難く受ける人不平不足で受ける人。有り難しで受ける人腹立ちで受ける人。そういう言うなら事柄との縁と言うものをです、言うならば相縁にしていくと言うところに、私は信心があると思うのです。それを折角のお徳を受けられるチャンスを頂いても、それをねかたっぱしから流していくとするならば、それは只機縁に終わって、言うなら今日の御理解じゃないですけれども、四十九節であります。
 いつも難儀は尽きません。だからバタバタしてまた神様にお願いせんならんと言う事になる。ここん所を一つ乗り越えると言う信心。四十九から一つそこを乗り越える所に五十節がある。五十と言うのは今中だと言われておる。教祖様はいつも今中と言う気持ちで信心をせよと仰る。どんなに苦労があろうが楽であろうが、まだ今中だから油断は出きん。どんなに例えば苦労の時であっても、今中と思うたら楽になる。自分が一番この世でふの悪い難儀な場にあるんだ、と言う様な頂き方は苦しい。
 けれどもそれを、今中の生き方で通ると言う事は、四十九節から一つ前進しなければいけない。一つの事柄でも、有難しで受ける人不平不足で受ける人。そこにはね天地程の開きが五年十年たって行く内には出来ると、泉尾の先生は仰っておられます。真面目な人不真面目な人、私は昨日研修の時に修行生の方達に申しました。まぁここに合楽デパート、というのがあって皆さんはここの店員さんであり、いうなら店員さんだよと、それで例えばなら御信者さんが言うならば、お得意さんの様なものなんだ。
 と言うて「いらっしゃいませ毎度有り難うございます」てん、なんてんと言う事はいらんとじゃから。それこそ信者さんから見られてです、本当に素晴らしい確かに修行に専念しておられる方達はちがう。と言う様な見方の出来れるような見て貰える位な、昨日の御理解で言うとですね、少しはそれがね形の上だけでもあってもです、そういう精進をしなきゃいけない。
 とにかく、金光様の先生になっただけで、たった一年どん修行して、帰ってきとってから、本当にあのう横着な修行生がおると、言うて先日からある人から私が聞いた。合楽で修行しよって、そげなことでよかかと、先日も総代会の時その話しが出た。あまりにも目にあまると、例えば信者から言われたり、思われたりするような事じゃつまらんよ。やはり信者に不安が出来る。とにかくやはり一年間修行して来なさったから、もうころっと変わんなさったと。
 例えば廊下ですれ違う時に、とてもこちらから頭を下げな下げらっしゃれん人があるちいう。また下げる下げないじゃないけれども、もう先生と言われた事でいうならば頭を下げる事を忘れると教祖が仰るが、そう言う様な修行生になっちゃでけんばい。もういうなら合楽デパートの店員さんと思うて、言うならば道で合うたならこちらの方が先に頭を下げるように、そすとあの修行生の方は出来てござると言うて、信者の方から今度は押し上げる様な働きが起こってくる。
 と言う様な、ま、話しをた事でした。そう言うような事でもです、もそれこそ天と地程の開きが出来てくるそれが基になるのだと、天地ほどの開きができる差ができる。私共は言うならば、修行の先取りをさして貰えるようなおかげを頂きたい。追いつめられての信心修行は本当なものじゃない。楽しみを先取りにする。只自分が楽に成ることばかりを考えておるのではなくてね。
 ここではそれを楽はせんぞと言う気になれと言われておる。そしてそこにはさせずにはおかんと言う働きが起こったら、有り難く楽をさせて頂くもんだよと、も特に修行に専念しておる。本当の修行をさせて頂く人は、私はそう言う気にならなきゃ修行は出けんと思う。自分から求めて楽はせんと言う気にならなければ。楽をお預けして末末の安心の歩みをして欲しい。そう言う信心の歩みを続けたい。
 させずにはおかんと言う働きを受けて初めて言うならば、相縁と言う事になるのじゃないでしょうか。合楽に縁を受け取るおかげで、自分と言ういうなら不真面目な人間がこの様にも真面目になった。自分のように無駄使いをしよった者が、こんなにも始末をする様になった。そこから天地ほどの差が生まれて来る道を、言うならばそう言う歩みをして欲しい。末々安心の歩みをして欲しい。
 そう言う歩みを続けて行く時に、安心が生まれる。安心と言うことは、一切の上におかげを頂くと言う事でしょう。お徳を受けると言う事でしょう。私共が言うならば合楽にこうして御縁を頂いた、その御縁を頂いたと言う事が、いよいよ相縁に育って行ってそれこそ、天地ほどの開きがあるおかげの、世界をめざしてもらわなきゃいけん。信心しとっても苦労が続く。
 四十九節そこはもう一つ何をか私共が、そこに感じさせてもろうて、一心発起本気で真面目でやろう、本気で一切を有り難く受けて行こう。とにかく本気で自分自身が助かる事のための修行をしようと、腹を決めた所からです。私は苦の先取りが出来ると思うですね。追いつめられて修行するのはきつい。それは本当なものじゃないとここでは言うてある。一つのことでも喜びで受ける人不足で受ける人と、一つの事との出会いがそこにある。その出会いを相縁にしていく、決心をすると言う事だと思いますですね。
   どうぞ。